8月1日はワルシャワにとって重要な日である。1944年8月1日にワルシャワ蜂起は起こった。街を占領していたナチス・ドイツに対し レジスタンスや市民が立ち上がり激しい戦闘が行われた 。戦闘が開始されたのが午後5時ちょうど。この時間は「Godzina”W”(Wの時間)」と呼ばれ、今でも8月1日の午後5時にはワルシャワの街にはサイレンが鳴り響き、人も車も立ち止まり、1分間の黙とうをささげるのである。
と書くと、厳かな式典を想像するかもしれないが(そういうものあるようだが)この日、ワルシャワの街は熱気ムンムン。関連イベントも多く開催される。
Godzina”W”を最初に体験したのは2014年。二度目の訪ポーランドで2週間滞在した時だ。恥ずかしながら実はその時、「ワルシャワ蜂起」という名称は聞いたことがあるものの、なぜ、いつ起きたのかも知らなかった。たまたま前日にポーランド人の友人たちと食事をした時「明日は午後5時に人も車も立ち止まって黙とうするけど驚かないでね」と言われたのだ。宿に帰ってネットで検索し、ワルシャワ蜂起のメモリアルということを知る。
では実際に、街はどういうことになっているのか。
2014年。ショッピングセンターのArkadia近くの交差点でその瞬間を待ち構えていた。
数分前から交通整理は始まっており、発煙筒を持った人たちが沿道にスタンバイするなど準備は万端。
午後5時ちょうど、サイレンが鳴り響き、発煙筒から紅白のスモークが立ちのぼる。
2015年は東京で Godzina”W” w Tokioというイベントを開催。
黙とうを捧げるには真夏の屋外の方がベターだろうとピクニックという形にしたのだが、真夏の東京でピクニックというのは暑すぎた…
旗を作ってみた
2か月ほどポーランドに滞在した2016年はCentrumでその瞬間を迎えた。交差点付近には数多くの人が集まる。圧倒的な人の数と熱気。この日がポーランド人にとっていかに大切な日か実感できる。
実はここまで大規模だとは思わなかった。バイカーの集団は午後5時のサイレンとともにエンジンをふかし白煙がたちこめる。というかこれは排気ガスだよね…
2017年はリバーサイドに来てみた。ヴィスワ川沿いの道を歩きながら、ふと、オープンしたばかりのオープンエアのレストランに目をやると、なんと友人のMagdaとJarekとばったり出くわす。川を望むデッキチェアに腰かけて、優雅にプロセッコを飲みながら Godzina”W” を待ち構えていた。
午後5時ちょうどにサイレンが鳴り響き、船上から紅白の煙があがる。
Godzina”W” のその瞬間、実は黙とうする人より、スマホを掲げて撮影する人の方が多い。
スマホが普及する以前は、今とは違う雰囲気だったのかもしれない。
2018年もリバーサイド。待ち合わせた友人は遅刻して午後5時の瞬間は「遠目からそれっぽいのが見えた」とか↓
2019年は友人のMałgosiaとクルーズ船に乗ろうとしたのだが、乗り場がわからず断念。一昨年、昨年と同様に川岸から。風景は2年前とほとんど変わらないけれど、ドローンが何台も飛んでいたのは以前は見られなかった光景↓
そして夜はBeataとPlac Piłsudskiego(ピウスツキ広場)へ。ここではワルシャワ蜂起にちなんだ歌を歌うイベントが開催。ここもまた、すごい人出。
ワルシャワ蜂起に関しては、ちょっと不思議なことがある。
2014年にワルシャワでGodzina”W” のセレモニーを目の当たりにして以来、ワルシャワ蜂起に関する情報に接するとなぜか泣けてくるのである。映像など見ようものなら、もう号泣。ちょっとした情報を読むだけでも涙が出てくる。まさかこんなたわいないことで、と油断しているといつの間にか感情が高ぶって泣き出していたり。条件反射に近い。
言葉では言い表せない不思議な感覚だ。
2015年に開催したピクニックも、8月1日が近づくにつ「何かしなくては」と、いてもたってもいられなくなって開催することにしたのである。
もし前世というものがあるならば、私はワルシャワ蜂起に関わる人間であったのではないかと思う。
魂が、帰りたくて帰りたくてこの地に戻ってきたのではないか。そんな風に感じる。
ポーランドの中でも私にとってワルシャワは特別な場所。どこかほかの街に出かけて帰ってくるたびにほっとする。
言葉も満足にできないし、この国のいろんなことをまだ知らない。家族がいるわけでもない。滞在許可を取得するのでさえ四苦八苦している。
でも、「ここが自分の場所なのだ」と強く感じるのだ。
そして現在住んでいる場所は、ワルシャワ蜂起、ワルシャワゲットー蜂起の中心となったエリアにある。まだこちらに来て2カ月目の時に家探しをして、首尾よく借りることができたのだが、よくこんなに自分の条件にマッチした物件が見つかったものだと思う。
たまたまなのか、引き寄せられたのか。
ただの思い込みと言ってしまえばそれまでだが、
不思議な縁を感じずにはいられないのである。